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坂田城跡 梅まつり (千葉県山武郡横芝町坂田)

 3月8日、まだ寒い日が続いていますがピークは過ぎたようです。あちこちでの梅の花の便りが届いてきます。千葉県・梅で検索すると坂田城跡梅まつりが上位にヒットします。今回は検索の千葉県山武郡横芝町の坂田城跡へ観梅に行きました。
 車は城跡の南側にある坂田池から近くの駐車場へ止めましたが、さて目的地はどちらだろうと、周囲を見回します。後から車を停めた人も行く先が判らないようでこちらに尋ねてきます。駐車場近くのガードマンの方に場所を教えてもらい、また徒歩でなく車で城跡まで行けるとの事、教えて頂いた小道を車でのぼり目的地に到着です。

 思っていたより梅の木の本数は少ないですね、家内は花より団子状態です。あとで坂田城跡梅林散策マップを見たら坂田池から1.5キロ北側にたくさん梅林があるようです。

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 坂田城跡の案内板がありました。

 坂田城跡

所在地 千葉県山武郡横芝町坂田字登城ほか
別称  市場城・城山
区分  中世城郭
形態  戦国期丘陵多郭式城郭

沿革

 伝承によると、14世紀の中ごろ、千葉氏によって築城されたと伝えられる。その後、千葉氏の重臣である三谷大膳亮胤興(信慈入道)の居城となり、長倉砦や小堤要害などの支城が整備された。弘治元年(1555)以降、大台城(芝山町)の井田因幡守友胤は、三谷氏の内紛に剰じて大膳亮胤興を討って、坂田城へ移ったとされる(『山室譜伝記』)。
 坂田城主となった井田氏は千葉氏に仕えるとともに、また小田原北条氏の被官として手勢300騎を擁して、東上総における典型的な戦国土豪であった。やがて、栗山川・高谷川の支流一帯に勢力を張り、関東各地に出陣した(『井田文書』)。天正18年(1590)4月、豊臣秀吉の小田原攻めの際、坂田城も追討軍のため落城したと伝えられる。

構造

 この坂田城は、JR横芝駅の北西約1.5㎞に位置して、俗に「城山」と呼ばれる。その遺構は、栗山川の支谷によって形成された東西250m、南北1500mの半島状台地の先端部に展開している。周囲は沖積低地に接した急崖で寺方北側から延びる谷の鞍部によって親台地から区画され、その南方には坂田沼の低湿地を控え「要害の地」である。
 その構造は、直線連郭式とよばれるもので、本丸から見台・登城・外城まで曲輪が直線的に配置され、その先端には城門桝形が設けられている。各曲輪は土塁や空堀によって守られており、土塁の一部を切って柵門(虎口)とし、その要所には櫓台を置き、帯郭などを備えている。一方、登城には姫塚の円墳が在るが、これは城普請の安全を祷った「地鎮」の跡でありものと察せられる。

 昭和63年10月
  横芝町教育委員会

 案内板の図です。
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