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2013年7月

国宝 鑁阿寺本堂 ばんなじほんどう (栃木県足利市)

 7月22日、栃木県足利市の鑁阿寺を見学しました。官報告示がまだ出ていないので正式には国宝ではないのでしょうが、時間の差の問題ですので今回は国宝 鑁阿寺本堂としました。関東で国宝建造物が指定されるのは、昨年の埼玉県熊谷市の歓喜院聖天堂に続きまた新たな指定です。栃木県民が羨ましい。

文化庁の報道資料より (平成25年5月17日)

 
【国宝】 鑁阿寺本堂 栃木県足利市
鑁阿寺本堂は、足利氏の居館跡に建てられた中世の密教本堂で、鎌倉時代最新の建築様式である禅宗様をいち早く導入した。後の宗教建築の構造と意匠に大きく影響を与えた禅宗様の受容と定着の様相を示し、極めて価値が高い。また、様式の選択には明確な意図が認められ、我が国における外来新技術の受容のあり方を示しており、文化史的に深い意義を有している。

【国宝 新指定の部】
① 鎌倉時代最新の建築様式である禅宗様をいち早く導入した密教本堂(近世以前/寺院)
鑁阿寺本堂 1棟
栃木県足利市
鑁阿寺
鑁阿寺は、足利市の中心市街にある、真言宗寺院である。境内は足利氏の居館跡と伝え、周囲に土塁と濠がめぐる。
鑁阿寺本堂は、大日如来を本尊とし、現在の建物は7代足利貞氏により正安元年(1299)に建立されたもので、応永14年(1407)から永享4年(1432)の修理により、柱と小屋組を強化して本瓦葺に改められた。その後、室町時代末期までに背面向拝をつけ、江戸時代中期に正面向拝が改造された。
平面は、典型的な密教本堂の形式だが、内外の組物は、禅宗様の詰組とする。
鑁阿寺本堂は、東日本を代表する中世の密教本堂で、当時最新の禅宗様をいち早く導入した建物である。わが国の宗教建築の構造と装飾の発展に寄与した禅宗様の、受容と定着の様相を示す遺構として極めて高い価値が認められる。
また、様式の摂取には要素の選択が認められ、我が国における外来新技術の受容のあり方を示しており、文化史的に深い意義を有している。

 足利市内の駅前と言っていいでしょうね、観光と参拝は境内に駐車できます。
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 楼門及び反橋
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 案内文です。

楼門 及び 反橋

 楼門は当山では仁王門又は山門ともいう。
 開基足利義兼公が建久七年(一一九六年)創建せるも室町時代兵火にあい永禄七年(一五六四年)足利幕府十三代将軍足利義輝の再建である。
 構造雄大、手法剛健、入母屋造、行基葺き。両側の仁王像は此の建物より古く鎌倉時代運慶の作といわれている。
 反橋は俗に太鼓橋といい江戸時代安政年間の再修である。
 当山境内は面積一万二千三百坪(四〇,四七六)四周に濠と土塁をめぐらし四門あり。
 当山開基足利義兼公の祖父源義国(八幡太郎源義家の子、足利・新田両家の祖)が別業として平安時代末に構築せるものにして上古の豪族の居館を原形のまま今日に残したもの。実に近世城郭の原始を示しており、足利氏宅跡として大正十一年国が史跡に指定した。
  楼門及び反橋は栃木県指定文化財である。

                 真言宗大本山
                    金剛山 鑁阿寺 

  鐘楼 (重要文化財)
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 案内文から

 鐘楼

 一、建久七年(一一九六年)足利義兼建立
 一、建築様式 形状簡古、手法稚撲 鎌倉時代の和様、唐様折衷の代表的禅宗様式、桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺
 一、明治四十一年、国宝建造物に指定さる。
 一、大勝五年 解体修理実施
 一、昭和二十六年、国重要文化財に指定さる。
 一、昭和三十六年 半解体修理実施
 一、平成四・五年 半解体修理実施
 ・梵鐘は元禄時代の再鋳であるが戦時の供出は歴史資料としてまぬかれる。

              真言宗 金剛山 鑁阿寺

 国宝 鑁阿寺本堂
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 境内の案内板から

 重要文化財
  鑁阿寺本堂(大御堂)

 鎌倉時代初期、建久七年(一一九六年)足利義兼の建立。
 本尊は源氏相伝の守本尊、大日如来。
 建築は構造雄大、手法剛健、本瓦葺唐様と和様を加味した折衷の代表的な建築で堂内の柱、天井、厨子等の価値は高い。
 明治四十一年 国宝に指定され昭和八年より二年間、解体修理を文部省の指導の下 実施した。
 戦後、法令の改正により重要文化財の指定を受く。
 境内に山門、鐘楼、不動堂、一切経堂、多宝塔、御霊殿等の七堂伽藍を備えた東国の 密教の代表的な寺である。
 創建以来、幸い火災にあわず多数の重要文化財を蔵している。
 開基、義兼七世の孫は足利尊氏にして京都室町に幕府を構え、幕府は十五代二百三十年つづいた。
 大祭は五月三、四、五日、十一月三、四日、初詣、節分鎧年越等 厄除・開運の祈願寺として参拝者が多い。

       真言宗大本山
         金剛山 鑁阿寺  

 経堂 (重要文化財)
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 案内文から

国指定重文 経堂

 当山開基、足利義兼が妻の供養の為、一切経会を修する道場として鎌倉時代に創建したといわれるが、現在の建物は応永十四年(一四〇七年)関東管領足利満兼により再建された。
 足利家は鎌倉・室町の両時代に盛んに一切経会を営んだ事が当山古文書(国重文)にみられる。
 堂内に八角の輪蔵(経棚)があり一切経二千余巻を蔵するが、此の経蔵は江戸時代の宝永年間の大修繕のものなり。
 昭和十一、二年文部技師阪谷良之進の指導の下、解体修理を実施した。
 昭和五十九年 国重要文化財に指定さる。
 平成十六・七年 屋根を主に文化庁指導の下、大修繕を実施。

                真言宗金剛山 鑁阿寺 

 多宝塔 (県指定文化財)
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 栃木県指定文化財    多宝塔(塔婆)

 開基足利義兼公創建と伝えられているが、現在のは元禄五年徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院尼公の再建と伝えられていたが、相輪の宝珠を調査したところ、寛永六年(一六二九年)銘のものが発見され塔の再建年代がさかのぼる事が判明した。
 徳川氏は新田氏の後裔と称し、新田氏は足利の庄より新田の庄に分家したるが故に徳川氏は祖先発祥の地なるを以て、此の宝塔を祖先の菩提供養のため再建寄進した。

 ・本尊は金剛界大日如来
  本尊前に勢至菩薩(俗に二十三夜尊)両側に十六羅漢像を祀る。
 ・奥に足利家の大位牌と徳川歴代将軍のお位牌を祀る。
 ・多宝塔としては我国で一番大きい。(これ以上大きいのは大塔という)

 平成七・八年半解体修理を実施した。

                      真言宗金剛山 鑁阿寺  

 境内は国指定史跡 足利氏宅跡 平安時代末期(12世紀)ともなっています。
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 今回の国宝指定がなければ訪れる事はなかったかもしれません。これだけの文化資産を地域で持てる点では関東屈指といえるでしょう。


 

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龍腹寺 (千葉県印西市)

 7月15日、前回に龍尾寺を訪ねたので、今回は龍のお腹の部分の龍腹寺を訪問です。住所は千葉県印西市竜腹寺626。
 ナビの目的地設定を間違えてしまい、交差点の名称の龍腹寺付近でしばし目的地探しです。ナビで周辺を調べると,龍腹院の名があったので多分そこだろうと思い再出発です。
 着くには着いたのですが、門が閉まっています。天台宗・龍腹寺と書かれています、間違いなく龍腹寺です。

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 無住のようです、せっかく地名まで残っているのに残念ですね。
 戻ってからネットで調べると本堂は成田山東京別院深川不動堂の本堂再建のために提供される事になりとあります。どうしてでしょうね?
 現地に行って見て、折角の文化的遺産がこの有様では少々寂しいと思いました。帰路昼食に入った店がまずく、また途中で買ったスイカとトウモロコシもまずく、色々残念な一日となりました。

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龍尾寺 (千葉県匝瑳市)

 7月11日、連日の猛暑日です。今回は印旛沼の龍伝説で龍が3つに分れ 龍角寺(千葉県印旛郡栄町)・龍腹寺(印旛郡本埜村)・龍尾寺(匝瑳市)に落ちたという尾の部分の龍尾寺を訪問です、住所は千葉県匝瑳市大寺1856。今で言う竜巻でしょうかね。
 途中、千葉のブランド米 多古米の水田を見ながらの到着です。

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 山門
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 本堂
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 薬師堂
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 井戸
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 案内板より

 弘法大師御手鑿井戸

 平安時代の大同二年(八〇七)平城天皇の御代に空海上人が全国巡錫の砌り、当山に錫を止めて御七日の御修法を厳修された折に独鈷を以て閼伽井戸を鑿り給う 是れ即ち大師御手鑿りの閼伽井戸なり 爾来清浄水渾々と湧出して涸れる事なく参拝の善男善女の心身を清浄ならしむ

                             龍尾寺

 板碑
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 案内板より

八日市場市指定有形文化財

 龍尾寺板碑 りゅうびじいたび

 昭和32年9月1日指定

 本板碑は下総型板碑に属し、板面中心にキリーク(阿弥陀如来)の梵字(サンスクリット)が刻まれ、これをおおうように天蓋と蓮台が描かれている。
 記念碑は応安六年(一三七三年)とあり、南北朝時代に建立したことがうかがえる。
 板碑の大きさは高さ一七八センチ、幅九一センチ、厚さ一四センチである。非常に美しい板碑で市内でもすぐれた板碑の一つである。

                      昭和六十年二月二十日 八匝教育委員会

 ここに龍がいました。
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 次はお腹の部分の龍腹寺です。

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